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相生ペーロンの歴史と由来

ページID:0054762 更新日:2012年10月1日更新 印刷ページ表示

ペーロン競漕の歴史と由来

ペーロンの発祥

 西暦紀元前300年のころ、中国の戦国時代、湖南地方で楚の宰相屈原は懐王を助けて善政を敷き、名宰相といわれていましたが、ざんげんにより政界より退けられました。その後間もなく懐王は、秦の軍勢に捕えられ客死しました。
 屈原は楚の国運をなげいて汨羅(べきら)に身を投じました。人民はこれを非常に悲しみ、「ちまき」を作って川に投げ、龍船(白龍)を浮べて競漕し、その霊を慰めました。
 ペーロンは「白龍」の中国音のパイロンがなまったものといわれております。

我が国への伝来

 我が国へは1655年に伝来したといわれています。その当時数隻の中国船が長崎港を訪れた際、強風のため出航できなくなったので、海神を慰めて風波を鎮めるためにこの「ペーロン」競漕を港内で行いました。
 これを長崎の人達がとりいれて競漕を行うようになり、同地の年中行事の一つとなって今日に及んでいます。

当地相生では

 大正11年に長崎県出身の播磨造船所従業員によって伝えられ、終戦までは毎年5月27日の海軍記念日に同社構内天白神社の例祭として、ボートレースと共に行われて来ましたが、この異国情緒あふれるペーロン競漕を絶やすことなく続けたいと、戦後、市・商工会議所・播磨造船所の共催による「相生港まつり」として開催し、また前夜祭として花火大会も行われるようになり、現在の祭りの基礎ができました。
 昭和37年には市、商工会議所、石川島播磨重工業の三者により「相生ペーロン祭協賛会」を結成し、翌昭和38年からは「相生ペーロン祭」の海上行事として、ドン!デン!ジャン!と、中国特有の銅らと太鼓の音に合わせて力漕する姿は、まさに龍が水面を駆けるように壮観そのもので、盛大に行われております。
 現在わが国で行われているところは、長崎のほかは相生、沖縄などです。

相生ペーロン船の沿革

 大正12年に当時の長崎型ペーロン船をモデルに3隻同時に建造され、天龍・白龍・神龍と命名されました。その大きさは、長さ13.55m幅1.75mで、艇長1名、舵取1名、監督2名、太鼓1名、銅ら1名、漕手34名、計40名の船でした。
 現在のペーロン船は少し小型化されていますが、龍の頭部をかたどった船首と木造和船の伝統を受け継ぎ、長さ13m、幅1.58mの船です。艇長1名、舵取1名、太鼓1名、銅ら1名、漕手28名、計32名が乗りです。歴代のペーロン船の船名は、初代(天龍・白龍・神龍)、二代目(飛龍・雲龍・蛟龍)、三代目(天龍・白龍・神龍)四代目(飛龍・雲龍・昇龍)、五代目(天龍・白龍・神龍)、六代目(海龍・輝龍・蒼龍・瑞龍)、七代目(天龍・白龍・神龍・昇龍)、八代目(海龍・輝龍・蒼龍・瑞龍)、九代目(飛龍・雲龍・蛟龍・青龍)、十代目(天龍・白龍・神龍・昇龍)で八代目・九代目・十代目のペーロン船12隻が現在使用されています。
 現役を引退した二代目「雲龍」はJR相生駅に、三代目「天龍」は歴史民俗資料館に、四代目「昇龍」はペーロン海館に、「飛龍」は三重県鳥羽市の「船の博物館」で展示保存されています。また市内の小学校にも展示し児童に親しまれています。


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